デザイン思考とアート思考
2005年、IDEO内において「d-school」が創設されたことを皮切りにデザイン思考がブームとなりました。
約10年後の2015年前後から日本国内でも解説本が出回り浸透をはじめたものの、企業における定着率は僅か5%と言われています。
2019年頃からは多様性が進む中、回答が導き出せない問題に対してアート思考が着目されはじめ、ビジネストレンドとなりました。
「デザイン思考はもう古い、今はアート思考の時代だ」と、ビジネスパーソンを中心にアートへの意識は向上していますが、そもそもデザインとは?アートとは何でしょうか?
目的の違い
デザインとアートは混同されがちな概念ですが、目的がかけ離れています。
デザインの目的 | 課題解決=Answer |
アートの目的 | 問いかけ=Question |
上記の通り矛盾した概念。それが両者の関係性です。
通常、デザイナーは顧客の抱える課題を「解決する」ことを仕事としています。
対して、アーティストは社会問題などを「問いかける」ことがお仕事です。
「明確な答え合わせをしない。考えを押し付けないからこそ、今の多様性時代にアートが適している。」という理屈でアート思考ブームとなっているワケですね。
雑な例えですがデザインとアートでは、自分へのご褒美にも下記のような違いが現れてきます。
デザイン思考 | 頑張ったご褒美にケーキを与える。 |
アート思考 | 頑張ったご褒美に何をしたい?と聞く。 |
今回の例えでは自分自身ですが、デザイン思考では特定のターゲットに対して回答を与えるという戦略をとります。
逆に「そもそも食べたいの?」から始まり、食べること以外にもターゲットに無数の選択肢を与えることがアート思考の特徴です。
この目的の違いはTV番組にも表れています。
目的の違い=結果の違い
バラエティとドラマを比較してみましょう。
一般的にバラエティの画面構成はデザイン思考、ドラマ番組の画面構成はアート思考となっています。
バラエティ番組 | ワイプやテロップ、軽快な効果音が多用され、どのタイミングから見始めても「誰が出演し」「今何をテーマにしているのか」「何が面白いのか」を一目で理解できる。 画面を撮影しSNSで共有しても、タイムライン上で瞬時に理解できる特徴があり、アクセシビリティに優れる。 |
ドラマ番組 | 役者の表情や声、BGMの有無で空気感を演出し、作品への没入感を高める。 ノイズを排除して視聴者の感情移入を促す特徴があり、画面いっぱいにシルエットだけの表現など、デザイン的には不明瞭でNGな要素も作品構成として使用する。 |
大河ドラマに出演者のワイプや、ポップなテロップが出たら興ざめですよね。
歴史を知っているからこそ訪れる、結末の無常観なども台無しになってしまいます。
私の好きな「日曜美術館」も作品名と制作年程度で、テロップがほとんどありません。
曜変天目の特集などにおいても、視聴者がどう捉えるかに重点をおいていました。
「キレイ」という感想で終わる人もいれば、前提知識をもとに「釉薬は何を使い、どのように模様をつけているのだろう」と疑問の生じる方もいます。
視聴者が感じる疑問を大事にし、見る側によって効果の変わるものがアート思考です。
目的も過程も結果も違う、それがデザイン思考とアート思考であり、本来は交わることがない概念となっています。
デザインとアートの大きな違い
小さいころ「書」を初めて見た際に、私は思いました。
「なんでルビを振ってくれないんだろう?」
今なお「貴方はアーティストじゃない。」と言われますが、良く言えば幼少期からデザイン的な思考をしていたとも言えるエピソード。
「書」にルビが振られていたら、それは「文字」となります。
あいうえお表を見て「これはアートだね!」と言える人は、そうそう居ないのではないでしょうか。
あいうえお表は学習という課題を手助けするデザインです。
ルビを振る行為もそうですが、デザインは行き過ぎると説明過多となり思考力を奪います。
説明や正しく伝えることに特化しており、回答を与え、考えを押し付ける行為でもあるわけです。
この文章もデザイン的ですね。
音楽がわかりやすいかもしれません。
譜面によっては「全音符」「二分音符」「休符」など余韻の設計がなされ、浸る時間が用意されています。
「君が代」の譜面を見ると、1節毎に二分音符で余韻を持たせています。
提供された現状を噛み砕き、栄養素として浸透させ蓄える時間が、余白・余韻となるのです。
生活圏に溢れる身近なアート
「アートは難しいもの」という印象は根深いです。
特に三段論法ではなく印象から考察をスタートさせてしまうと、その傾向は一層強くなります。
数学の教科書を途中から読み始めると、全く意味がわからないのも同じ理由。
「パブロ・ピカソのキュビズムは何がスゴイ?」は、キュビズム誕生までの美術史を知らなければ解けない方程式です。
大抵の方が学芸員の解説を聞いたことがないので難解さは仕方のないことですが、我々の生活はアートに満ち溢れています。
今回は少し踏み込んで「アート=哲学」「アート=ファン作り」といった解釈よりも深度のある「アート=問いかけ(対象×〇〇)」を定義付けます。
公園や駅前のベンチを思い出してみましょう。
いつの頃からか、ベンチには手すりがつけられ、横になれなくなりました。
またベンチ代わりにされていた段差や遊具にも、急な傾斜、ゴツゴツした足つぼマットのような岩、三角コーンのような突起物が取り付けられています。
これは排除アートと呼ばれるジャンルであり、路上生活者を寄せ付けず、地域にとって治安の向上といった効果を生んでいます。
前提知識をもとに改めて排除アートを見ると、皆様方もきっと思うところがあるはずです。
排除アートのように誰に向けたものかを意識することで、はじめてアートは理解できるようになっています。
何かをつくるということは対象が存在するため、それだけで問いかけが発生。
「アート=問いかけ」というと難しく感じるものですが、街を見渡すとそこら中にアートが溢れています。
夕飯を作るにしても健康に気遣うなど、そこに対象への問いかけがあればアートと言えるのです。
我が家の夕飯はアートである
「夕飯がアートと言われても、そんな大げさな。嫌いなものを食べられるようにするキャラ弁くらいでしょ?」と思われる方も多いハズ。
たしかに両者はアートとして、問いかけの深度が異なります。
同じ弁当でもハラール弁当や、ヴィーガン弁当、グルテンフリー弁当など様々。
料亭の懐石料理と、昨日余った食材で作る夕飯とでは、そもそも対象・ジャンルが違うのです。
プロレスラーとプロゴルファーを同じ土俵で戦わせようとする、甲虫王者ムシキング級の暴挙。
異種格闘技もムシキングも男の子はワクワクしますので、パブロ・ピカソと岡本太郎の仁義なき殴り合いは、漫画なりエンタメとして最高かなとも思いますが…
並べて語ることができない故、アートにも料理にもスポーツにも、ジャンルという括りが存在します。
最も説明に適したジャンル違いは、「静物画」と「ヴァニタス」の違いでしょう。
静物画は、静物(石膏像や果物≠動物)描写という美術の基礎にあたります。
学校の美術教育でデッサンとして習う内容です。
リンゴやティッシュ箱、トイレットペーパー、アグリッパ石膏像が題材として多いのですが、要は基礎的過ぎて美術の格が低いと見做され、軽んじられてきたジャンルです。
ヴァニタスも基本は同じで、静物を描写するジャンルです。
ただし描くものは「頭蓋骨」「砂時計」「花」「煙」といった、死を連想させるものとなります。
キリスト教でいう「メメント・モリ」、仏教でいう「諸行無常」がテーマとなっており、日本では「平家物語」が大分類ではヴァニタスに属すると考えられますね。
このように宗教的側面を併せ持つことで地位を高めた静物画を、ヴァニタスというジャンルで括ります。
ヴァニタスは祖母が好んで描いていたジャンルですが、私が「花」や「煙」といった描写を多用する原点にあたります。
私が「よくわからないけどアート性を感じる。」とお客様から言われる要因が、このヴァニタスの流用です。
夕飯に話を戻しましょう。
料亭の懐石料理、我が家の夕飯、キャラ弁。
どれもジャンルは違うものですが、静物画とヴァニタス同様、源流は同じアートなのです。
クリエイターのサラブレット、それが農家
「モナ・リザ」で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチは、万能の天才と称されています。
簡単に言えば「何でも作る天才」なのですが、彼に近い職業が存在します。
一子相伝の技術と過酷なコミュニティ内での競争、最新技術の活用、外部環境変化への適用、自然環境との闘いを経て、野菜・果物といった夕飯にも使用する食材の制作者「農家」です。
私は茨城や埼玉で野菜を食べた時、その味に感動したものですが、野菜の制作者は並みのクリエイターでは尻尾を巻いて逃げだすほど、過酷な環境で制作しています。
農業体験をさせて頂いたこともありますが、私のような青瓢箪では何の成果も生み出せませんでした。
せめて「世界最悪のキリスト画修復」とならないよう、食材を雑に上書きすることなく大切に扱いたいと思う限りです。
お世話になっている茨城の農家「FIELD-LIFE」様を例とし、作っているものの一部を並べてみます。
水を作り、土を作り、種を作り、生育環境を作り、作物を作り、雇用を作り、加工品を作り、商品名を作り、パッケージを作り、廃畑を畑として再生させる。
農業の6次化が進む中、さらに農家の作るものは増えているのですが、農家は人材管理や経理、営業、研究、研修、販路開拓などなど、何でもやらなければなりません。
戦国時代には、兵士や土建まで担当していた、まさに万能の天才です。
農家の作るものには、必ず対象が設定されています。
野菜にとっての土、地球にとっての環境、消費者にとっての作物。
化学肥料の使用等という問いかけに対し、地球は温暖化という答えを示しました。
「農業におけるアート思考」にて後述しますが、農家は新たな有機肥料の研究を進めています。
常に問いかけを続ける農家はアート性の塊であると仮定でき、土を休める休耕期の設定も余韻の設計と解釈できます。
では、焼畑農業はどうでしょうか?
地力を蓄えるための休耕期もあり、自然環境の破壊など議論の的、つまり問いかけが発生しています。
ここで判断基準となるのが、アートの本質です。
アートをアートたらしめる要素
アートに欠如してはならないものが存在します。
これがアートを見分けるポイントとなるのですが、まずは3つの例を見てみましょう。
アート | 絵画、社会貢献、歴史文化 |
非アート | 贋作、暴力行為、改竄捏造 |
上述の通りアートと呼称されるものには共通項があり、それが「品格」です。
式で表すと、「アート=問いかけ(対象×品格)」。
「問いかける対象×問いかけの品格」の相乗効果でアートは成り立つと仮定できます。
盆栽家、小林國雄先生も「アートの本質は品格である」と定義付けています。
盆栽においても品格が第一であるそうですが、上品・下品の違いではありません。
例えば、下品の代表格である「うんこ」はどうでしょう?
子供が発する「うんこ」と生物学者が発する「うんこ」は意味合いが大きく異なります。
ウンコはアートになれないのか?
絶大な人気を誇る「うんこ」ですが、「うんこ」×「カワイイ」をテーマとした「うんこミュージアム」も誕生しました。
実は既に「うんこ」はアートとして認識されています。
しかしながら、全ての「うんこ」がアートとは言えません、「うんこ」の世界にも「静物画」と「ヴァニタス」のように格が存在するのです。
「うんこ」とは、食事が腸内細菌等により分解吸収され、排出された残りもの。
生命活動において必然的に生み出される副産物です。
人糞の歴史を紐解いていくと、鎌倉時代から江戸時代にかけ有機肥料として仕入販売されていました。
江戸時代においては地方と比較し、江戸の町でとれる「うんこ」は栄養価が高く価格も高騰。
江戸の人糞は、野菜の生産性向上という効果を生みだし、今でいう持続可能な農業を実現していたのです。
このように地方と江戸の「うんこ」など、同じ「うんこ」でありながら制作者によって効果が異なり、必然的に価値も異なります。
「健康的か?」「普段何を食べているか?」など、制作の過程である生活を尊敬できるかが「うんこ」の価値の分かれ目です。
尊敬できる生活環境、つまりは「品格」を意味しているのですが、「品質」の積み重ねで格は生まれます。
アート思考=問いかけるセールス
ここまでをまとめると、アートの目的は対象への問いかけであり、本質は品格でした。
対してデザインは、対象の課題解決を目的とした設計書となります。
ビジネスにおいては、やはり課題解決を目的としたデザイン思考が適しているように思えますが、アート思考の凄いところは、セールスに効果を発揮する点です。
「問いかけて売上あがるなら簡単じゃん?」と誰もが思いますが、デザイナーにとっては頭を抱える難題。
アーティストが行っている「説明しないで伝える。」という行為は、正しく説明することを重視してきた人にとって、おいそれと真似できるものではありません。
皆様が目にしてきたであろう数字を題材に、この難しさを少し掘り下げてみましょう。
アート的な数字とデザイン的な数字
広告には自然な数字と、不自然な数字が存在します。
例えば、「顧客満足度:100%」「顧客満足度:98%」「顧客満足度:95%」の3つを並べた場合、どれが自然でしょうか?
なんとなく、98%が違和感を覚えない数字になっています。
98%という文字には角ばった箇所がなく、女性的で繊細な印象を与えるデザイン要素と、スーパー等で見慣れた文字(ザイアンス効果)という好感度を抱かせる効果の2つを持ち合わせています。
顧客満足度100%、顧客満足度95%などキリの良い数字は「本当に調査したのかな?」というマイナスの問いかけが発生してしまい、情報の真偽性を問う効果が生まれてしまいます。
フォントの影響も受けますので一概には言えないものですが、欲を言えば96%が文字の窮屈さもなく、広告で扱う数字としては効果的ですね。
これが果汁100%であれば、逆に98%は「横に並んでいる他社製品が100%なのに、あと2%頑張れなかったの?」というマイナスの効果を生んでしまいます。
別の補助要素と補完的に比較説明することで、デザインは優位性を保っているというカラクリがあるわけです。
デザインを作るときは、必ず補助要素となる競合他社や過去の実績などが存在。
例とした顧客満足度(効用)もアンケートだけでなく、経済学をベースに消費数から求めたりもします。
では、アート的な数字を見てみましょう。
下記3つの数字は、とある理由で数字単体でも奥行を持っています。
「1.41421356」「1.7320508」「3776」
どこかで見ているはずですが、思い出せますでしょうか?
それぞれの数値は義務教育で習う数字。
1.41421356 | 2の平方根(ひとよひとよにひとみごろ) |
1.7320508 | 3の平方根(ひとなみにおごれや) |
3776 | 富士山の標高(富士山みたいにみななろう) |
ちなみに過去のgooランキング「つい声に出して言いたくなる小中学校で習った理数系の用語ランキング」では、2の平方根が第1位に輝きました。
当時の授業を思い出しながら改めて数字を見ると、ただの数値に意味や価値といった品格を感じませんか?
暗記に苦労した思い出が蘇るかもしれませんが、それもまた見る側の過去へ向けた問いかけとなっています。
「円周率3.141592の方が覚えてる。」
「もっと勉強しておけばよかった。」
「富士山にむかって、皆(37)南無(76)と習った」
このように、それぞれ違ったリアクションが返ってくることが問いかけの成功例です。
誕生日も同じ理由でアート的数字と言えますね。
でもでも数字は苦手だし
人類の偉大な発明である数字からは、いくら苦手でも逃れることはできません。
学生時代に強大な敵であった数字の語呂合わせも、大人になれば可愛いもの。
詰め込むのではなく、解釈できる余裕を持ったという成長の証拠でもあります。
しかし、数字をアートとして提示するハードルは高く感じませんか?
数字を見せて「さぁ好きに答えて!」というのは一般人には無理があります。
QuizKnockのメンバーならいくらでも語れそうですが…
アート的な数字の例を出す前提として、基本的にデザイナーの直接的なお客様は経営者です。
つまり日々何かの数字を扱っています。
たとえば、売上。
この売上という数字は、経営活動の成果を数値化したものであり、施策の実行といった制作過程に対して評価してくれています。
売上が1000万円だとすれば、その1000万という数字には経営者の努力が詰まっています。
顧客や社員、地域、社会などへの問いかけを繰り返し、1000万という数字を制作しているのです。
この時点で、経営者にとって1000万という数字はアート的であると言えます。
自分へのご褒美に使う1万円。
この1万円を、自分のスキルを活かせないかと社会に問いかけた副業で作る。
もしくは、自身の生活の最適化を図れないか、あるいは環境保全に貢献できないかという問いかけに対して節約で作る。
値こそ先例の1000分の1ですが、この1万という数字もアート的と言えます。
家計簿や貸借対照表には、上記の取組の成果である意味を持った数字が並びます。
見やすく分析しやすいレイアウトと、アート性をもった数字が共存する、デザインとアートの共存例となっています。
数字はキュビズム
「家計簿も貸借対照表も作ったことない。」
「あるにはあるけど…深く考えず転記だけしてる。」
「毎日数字に触れているけどキライ。」
「数学出来る人は、簡単とか、そういうこと言うよね?」
上記のようなリアクションは必ず返ってきますし、私も数字は苦手派です。
苦手のメカニズムは勉強方法にあったと私自身は考えています。
演繹法(えんえきほう) | ①アートには問いかける対象が必要。 ②アートでは問いかけの品格が問われる。 ③よって、アートには問いかけ(対象×品格)が必要不可欠。 ①と②の事実を合わせ、③という方程式(ルール)を導き出し当てはめて考えていく手法。 本ページの「目的の違い」は演繹法が用いられています。 |
帰納法(きのうほう) | ①KAWSのアートには意味がある。 ②ロッカクアヤコのアートには意味がある。 ③アートには意味が必要である。 ①と②の事例から共通項を抜き出し、統合した③の結論を導き出す手法。 気を付けたい点は、解釈により③の結論が違うため、人それぞれに解があります。 「アートをアートたらしめる要素」は帰納法が用いられています。 |
上記の「演繹法」「帰納法」はどちらも「論理的思考」の基本となる考え方です。
一般的に国語、社会、英語、美術などは「帰納法」。
数学や物理が「演繹法」として知られています。
数字を苦手と考える原因は「帰納法」の方が、わかった気になりやすいという特徴により、「帰納法」で学習するためではないでしょうか。
いざとなったら応用が利かないのは、実はルールを理解していなかったためであることが多く、瞬時に相手に理解してもらいやすい「帰納法」の欠点が露出した形です。
では、どうすれば数字に慣れることができるのでしょう?
デザインの世界でもアートの世界でも、本物に触れると感性が爆発し、興味を持つことでルールを理解できるようになります。
実例となりますが、私が数字にアートとの共通項を感じたのは「税理士法人ブラザシップ」様の「数字が苦手な社長でも一生使える財務の秘訣」という体験セミナーを受けてからです。
講義を担当されているのは松原先生という方ですが、デザインとアートが共存している稀有な先生。
私は上記体験セミナーを受けてから本研修への参加を決意しましたが、判断基準となったのは松原先生のアート性に他なりません。
体験という問いかけと、内包された品格から受けとった、効果への信頼感です。
松原先生の講義においては、兎角数字を問われるのですが、数学や物理といった難解さはありません。
知らず知らずのうちに、アパレル業など各業界の財務諸表を比較し「この数字は何の要素で構成されているのか?」を分析できるようになります。
つまり、財務諸表に並ぶ数字がデザイン要素ではなく、変化や選択といった進化の途上として意味を持った歴史の足跡に変わり、自分自身に直球の問いかけを投げてきます。
デザイナー全員には1度無料体験を受けてほしいと思うほど、この気付きはデザインに関しても、経営に関しても、とてつもない効果を生み出しました。
また、ワークの時間があり、学習した内容を嚙み砕き吸収する時間が設けられています。
アートでいう、余韻・余白の設定です。
さらにはグループ内でアウトプットする時間も設定され、異なる他業種の視点を学び取ることもできます。
長年同じ業種に生きていると、美術界のようにルールが出来上がってしまいます。
しかし、同じグループの「パブロ・ピカソ」や「ジョルジュ・ブラック」が異なる視点を提示し、「キュビズム」が生まれたように、そのルールは一体誰の為なのかを改めて気付かされます。
時間を描き、美術史を知らなければ解けない「キュビズム」を例に挙げましたが、講義内では財務諸表は通信簿のようなものと教わります。
通信簿は1年の時間が詰まったタイムカプセル。
アート的な数字とは何か、より具体的に見えてきましたでしょうか?
デザインとアートの共存
デザインとアートは目的の違う、矛盾した概念です。
しかし、家計簿や貸借対照表のように共存が可能であり、美術館も建築デザインとアートが共存する場となっています。
黒川紀章さんが設計した、今はなき「中銀カプセルタワービル」は、両者が共存した生活空間としてあまりにも有名です。
共存の効果をチラシを例として見ていきましょう。
デザインには「Web」や「DTP」といった枠組みが存在します。
枠組みは制約という環境になり、これまでデザイナーは変化と選択を繰り返し進化を続けてきました。
例えばチラシには用紙サイズや色、フォントサイズといった、制約・環境のルールがあり、載せたい文章全てを掲載することはできません。
デザイナーはこの制約課題に対し、QRコードを用いた外部的な補完を試みました。
当初は目新しさもあり、QRコードによる補完は大成功。
結果として多くのチラシに採用され、現在は極々ありふれたチラシとなっています。
続いてデザイナーはSEOの再活用に着目します。
「〇〇で検索!」といった文言をチラシ等で見たことは有りませんでしょうか?
スマホが普及するより以前のチラシ形式となりますが、Webを使った検索との連動はチラシデザインの歴史においては古いものです。
この検索を再利用するため、デザイナーは「パンチライン」「キャッチコピー」「絵力」「体験」を活用し、ユーザーが興味を持ち自然と検索するように仕向けています。
しかし、この情報化社会ではあまりにも広告が多く、ユーザーが検索に疲れてしまっているのも事実です。
デザインの連動(DTP→Web)による離脱率は少なくありません。
割引クーポン、ギフトカード贈呈、体験サービス。
様々な付加価値でユーザーの興味を惹こうと努力していますが、結局体力ある大手には勝てず、中小企業の広告戦略は一層厳しさを増しています。
ここまでデザイナーが行った取組は、全てデザイン思考のお話。
満を持して登場したのがアート思考です。
ゴミを出せば客が来る
読み終わったチラシはゴミとなります。
言い換えれば、ユーザーに情報を吸い取られた残りものである「うんこ」。
この「うんこ」を広告として活用した企業があります。
お茶で有名な「伊藤園」ですが、2003年缶コーヒー部門の宣伝戦略として「サロン・ド・カフェ」を開始。
「女性受けするパリのオシャレな缶コーヒー」のイメージ定着を狙ったものと分析されています。
ここで起用されたパッケージデザインが、アール・ヌーヴォーを代表する画家「アルフォンス・ミュシャ」です。
缶コーヒーの空き缶は、いわばゴミとなります。
しかし、「アルフォンス・ミュシャ」のアートはゴミになりません。
発売から20年が経過した現在でもこのミュシャ缶はオークションで販売され、3本で8,000円弱と、当時の約80倍の価格で取引されています。
2003年当時、私の妹がこの缶コーヒーを毎日のように買い集めていました。
「アルフォンス・ミュシャ」も知りませんし、コーヒーも飲めません。
ただ缶コーヒーの山は積み上がり、私は伊藤園のコーヒーを飲み続け、熱心なリピーターとなったのです。
上記は新規顧客から、手順をすっとばして固定顧客を大量発生させた大成功例です。
結果として「伊藤園」は空き缶というゴミに価値を生み出し、顧客はゴミを並べて満足度を高めました。
消費数からの効用(満足度)という観点から見てもこの戦略から学ぶべき点は多く、キャラクターを掲載したコラボ缶もニアイコールの効果を生んでいます。
しかし、ここで終わりではありません。
顧客は空き缶というゴミを並べます。現代であればSNSで発信もするでしょう。
空き缶には社名・商品名が掲載されており、顧客は見るたびにブランドの刷り込みがなされます。
「ザイアンスの法則」では、「人は何度も目にする物に対し、好感を持ちやすくなる。」とされています。
海外でDAISOを見ると安心する心理に近いですね。
つまり、人は伊藤園の空き缶を見るたびに購入意欲が増加していくのですが、20年たった2023年現在でも効果は持続しています。
今でも私が無意識に伊藤園の缶コーヒーを買ってしまうのは、毎日刷り込まれたからです。
空き缶は工業デザインです。
そこにパッケージとしてアートを印刷する。
アートはデザインが足止めされる「媒体の壁」「時代の壁」を一気に飛び越えてしまいます。
現代においても、ミュシャ缶は伊藤園の売上に貢献する連動性を備えています。
では何故、アートはあらゆる壁を飛び越えられるのでしょうか?
あらゆる壁を飛び越えるアート
アール・ヌーヴォー代表の「アルフォンス・ミュシャ」を引き続き例とし、壁を飛び越えるアートの効果を分析してみましょう。
ミュシャは音楽家を志していましたが、中学校を中退し、地方裁判所に勤め、夜間のデッサン学校に通ったという異色の経歴を持ちます。
その後印刷所で働いていたミュシャですが、画家の休暇など複数の理由が重なり合い、突然ミュシャにポスターデザインの案件が飛び込んできます。
彼の出世作、「ジスモンダ」はこの時生まれました。
当然ながらジスモンダ誕生に至るまで、美術学校に通い、雑誌の挿絵などで生計を立て、アートとデザインを学ぶなど、ミュシャは修業期間を経験しています。
アートとデザインの融合したタイミングがたまたまジスモンダ制作と重なったと見做した場合、アートのもう1つの特徴である「循環」に着目できます。
先のミュシャ缶においても「媒体の壁」「時代の壁」を超える特性がありましたが、これは循環性を備えたアートの効果です。
2023年文化庁発表のアート市場構想においても文化と経済の循環がテーマとなり、下記方針が示されています。
「官民問わずアート市場の活性化を進めることが、社会的にも経済的にも有益であることがわかりつつあり、文化芸術と経済の好循環を達成することにより、文化芸術立国を目指す」
アートは問いかけ(対象×品格)であると定義づけられ、対象が必要不可欠。
アートが社会を対象とした問いかけであった場合、「制作者と社会」「社会と閲覧者」「閲覧者と制作者」間で循環を繰り返し、同じ問いが存在し続ける限り、社会という土壌は改良されていきます。
ミュシャをクリエイターとして分析した場合、彼はデザインの経験知識をアートへ、アートの経験知識をデザインへと循環させる土壌改良を繰り返しています。
デザインは課題やニーズへの対症療法に近いため、原因療法のキッカケとなるアートの効果を持ち合わせていません。
農業におけるアート思考
原因療法のキッカケとなるアートは、農業においても効果を発揮しています。
SDGsという問いに対し、秋田県横手市の民間企業では、ヘラクレスオオカブトと農業を融合させた、町おこしにも好影響を与える事業「ヘラクレスベジタブル」を開発し注目を集めています。
横手市では、ヘラクレスオオカブトの幼虫から「うんこ」を採取し有機堆肥を製造。
地球環境に優しい持続可能な農業を実現させました。
有機堆肥は農作物の土壌生成に必要不可欠である微生物の大好物ですから、その効果は農業にとっても絶大。
子供に大人気のヘラクレスオオカブトは知名度も抜群、横手焼きそばで有名な横手市にとって新たなブランドの源泉になりつつあります。
この「ヘラクレスベジタブル」の発想は、デザイン思考では起こりえないものです。
基本的にデザイン思考では、不確実な要素であるリスク(バラつき)を組み込みません。
デザイン思考的に農業を考えるとき、効果にリスク(バラつき)のない化学肥料を選びます。
横手市の例ではヘラクレスオオカブトは生き物であり、予測不可能なリスク(バラつき)の塊です。
人は全てをコントロールしたがります。
しかし外部環境は日々変動し、絶えずリスクを生み出し、人がコントロールできる範疇を越えています。
リスクに対する答えは人それぞれ違うものであり、横手市の例もその1つに過ぎません。
一番最初に述べた下記文章。
「2019年頃からは多様性が進む中、回答が導き出せない問題に対してアート思考が着目されはじめ、ビジネストレンドとなりました。」
これは、「コントロールできない問題なら、あえてコントロールできないアートと相殺し解決しよう」と読み替えることができます。
人々が解決できない問題を、数人で解決しようとするデザイン思考。
閲覧者全員に問いがある限り考えてもらう、アート思考。
どちらが現代に適しているでしょうか?
本内容もまた「アート思考とは何か?」という問いに対する、1つの解釈でしかありません。
デザインにおけるアート思考
チラシの例をあげましたが、今度はWebデザインで見てみましょう。
まず、Webサイトとはユーザーが必要な情報にたどり着くための設計(デザイン)です。
設計によってユーザーのゴールは異なりますが、最もポピュラーなゴールが「お問い合わせ」です。
当サイトにも一応「お問い合わせ」ボタンは設置していますが、そもそもゴールとして設計していません。
当サイトは「様々な経営者の知恵を集めた教育コンテンツ」制作を目的としているため、各記事がゴールとなっています。
この記事を見ているという事は、設計が正しく機能しているということになります。
このようにページの構造や導線は、デザイン思考で作られる学術的な広告科学の範疇です。
しかし、記事など内部の要素は、閲覧者に対し「問いかけ」となるアートであった方が効果が増します。
例えば「お問い合わせ」がゴールであった場合、「お問い合わせはコチラ」という要素はデザイン的には合格であっても、アート的には不合格となります。
よりデザイン的な得点を高めるならば、「カレンダー型」や「チャットボット導入」などが高得点を出せますね。
では、「お問い合わせ」ボタンをアート的に作るとどうなるでしょうか?
全ての業種に応用できるものではありませんが、とある支援団体様を例とします。
目的は「生活に困る方を支援するボランティア活動者を増やすため、問い合わせを増やしたい」でした。
デザイン的に考えるのであれば、団体説明や活動紹介といった要素を配置し、お問い合わせへと誘導します。
つまり主役を団体とした設計です。
しかしアート的に考えた場合、主役は閲覧者であり、配置すべき要素は支援対象者です。
よって支援対象者の生活や実数、困りごとなど、閲覧者それぞれに「何ができるか?」を問いかけます。
ABテストを用いるLPに近い構造となりますが、デザインと比べて全く違う要素で構成。
焦点は、「ボランティアに興味を持たせるために団体のキラキラした活動を見せても、勝手に頑張れとしか思わないよね」というユーザーの反応です。
団体への加入を目的とするではなく、支援対象者に対するボランティアを促すものであり、団体はあくまで入口にすぎないという導線設計がアート思考的な構造です。
このアート思考的なWebサイトのデザインには想定外の効果がありました。
「土曜日の〇時~〇時の時間しか空いていませんが、参加できますか?」
「1時間なら手伝えますが、大丈夫ですか?」
上記のような、具体的なリアクションの発現です。
Webサイトという土壌をただの情報羅列画面にするのではなく、画面の向こうの相手とのコミュニケーションに変えるのがアートの力です。
そして土壌は微生物の特性による恩恵で作られます。
アートに最も近い生き物
アートは対象を取り巻く環境に変化を選択させ、進化を促しています。
「アート=問いかけ(対象×品格)」の本質は目に見えません。
この役割に近い生物が、微生物です。
微生物とは目に見えない生き物の総称であり、自身に適した環境を求めて繁殖し、特性を発揮します。
人間はビフィズス菌などの腸内細菌がいなければ食物繊維を分解できず、エネルギーを作り出せなくなります。
織田信長が馬糞のついた菓子を家臣に食べさせたパワハラ話は有名です。
ですが無理やり擁護するならば、食物繊維を分解する微生物を腸内に取り込ませることが目的であった…と考えられなくないかもしれません。
絶対にイヤですけれど。
人類の歴史を振り返ると、微生物ナシに存在が成り立ちません。
進化の謎を解くカギとされる「古細菌アーキア」は人類の祖先にあたり、この古細菌から哺乳類も昆虫も植物も派生しています。
まるで「静物画」から宗教的要素を取り入れて派生した「ヴァニタス」のようです。
しかし、地球に酸素が溢れた時、酸素を吸収できないアーキアは絶滅の危機という課題に直面していました。
ここでアーキアは考えます。
「自分で進化しなくても、誰かの力を借りれば生き残れる」
酸素を分解する好気性細菌を取り込み、進化したのです。
このアーキアと好気性細菌等の共存体は、現代の義務教育においてはミトコンドリアと習います。
その後、絶滅の危機から脱した人類は、微生物から魚へと進化しました。
次に待ち受けていた課題は、陸上への適応です。
ここでも人類は他の微生物の力を借り、課題を克服しました。
自身の腸内バリアを取り除き、腸内に微生物を住まわせることで陸上への進出を可能としたのです。
目に見えない存在から始まり、他の微生物の力を借り、目に見える人類へと進化した微生物。
目に見えない問いかけから始まり、制作者の手を借り、目に見える形となったアート。
自身に適した環境において特性を発揮するといった点も含めて、似通っていると思えませんでしょうか?
「あれ?他者の手を借りて課題解決したならデザイン思考では?」と気付いた方は素晴らしい。
次の内容(アートの土壌はデザインから、デザインはアートから)はその問に対する答えです。
では、アートを適した環境へ届けるにはどうすればよいでしょう?
パブロ・ピカソの絵を深海に放り込んでも、深海生物にとっては他のゴミと区別がつかず、パブロ・ピカソの問いかけは届きません。
アルフォンス・ミュシャの絵を現在の火星に打ち上げても、火星からリアクションはありません。
アートが効果を発揮するには、対象へ届けるロケットと、繁殖しやすい環境の構築が必要となってきます。
アートの土壌はデザインから、デザインはアートから
共存において肝要となるのが、導線と環境構築。
これはデザイン思考の得意分野にあたる課題解決です。
デザインにより導線を作り、対象者へ問いかけを届ける。
問いかけを形にする制作環境を用意する。問いかけを誰もが見れる閲覧環境を用意する。
オンライン美術館が最もイメージに近いかもしれません。
デザインは見る側の気持ちを温めます。
農作物を作るように、微生物を培養するように、紙や無機質な画面に対象者が好む、あるいは作品が好む温度を設定し土壌を作り上げる。
デザインは温度の上昇に伴い浸透率を増す水のような存在であり、顧客の心を温め要素を浸透させるから効果を生んでいます。
対象者や作品の好む温度を知るには、「入力」「整理力」「観察力」「理解力」「出力」5つの力が必要不可欠。
この5つ、アートを習ったことがある人であればピンとくるかもしれません。
これは「デッサン」です。
「リンゴ」「ティッシュ箱」「トイレットペーパー」「アグリッパ石膏像」「頭蓋骨」「花」「砂時計」「煙」「建築」「人間」などなど。
異なる材質・形状を描き分けるため、デッサンは入力から出力までの5工程を要します。
アートを届けるためにはデザインが必要であり、デザインを作るためにはアートが必要。
そして、アートの教材となるのは自然デザインや工業デザイン。
両者はグルグルと循環する位置関係にありますが、既にアートの一部にデザイナーは取り込まれています。
デザイン思考とアート思考。
目的も過程も結果も違う両者は、矛盾した概念です。
しかし、矛盾したデザインとアートは遥か昔から共存を続けています。
「社会」「夕飯」「農業」「うんこ」「数字」「ゴミ」「工業」「人類」
問いがある限りアートは不滅であり、届ける手法のデザインも不滅です。
では、循環致しますが最初の問いに戻ります。
「デザイン思考はもう古い、今はアート思考の時代だ」と、ビジネスパーソンを中心にアートへの意識は向上していますが、そもそもデザインとは?アートとは何でしょうか?